稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。問い合わせはkifusha☆gmail.com(☆→@)へ。

カミハルさんの短歌について 第3回:カミハルさんのユーモア

 前回すごくガチガチの話をしてしまったように思うので、今回はやわらかめの話をしてみたい。というより、今までずっと「各論」ばかりを語ってきて、「本論」が置き去りになってしまっていたように思う。カミハルさんの短歌は、まず第一に、面白いのだ。


  幸せがテトラポッドになりました かに どこまでもすべり落ちます


 「幸せ」が、こともあろうに「テトラポッド」になってしまった。普通の人はあまり、幸せをテトラポッドにしようとは思わない。さらにその上を、「かに」が「どこまでもすべり落ち」ている。テトラポッドの上を「かに」が這っているのはすごくわかりやすい。しかしその「テトラポッド」が「幸せ」を具現化した存在となった瞬間に、「どこまでもすべり落ち」てしまうのだ。
 「幸せ」を具現化したこの「テトラポッド」はたぶん、「かに」が「すべり落ち」るほどにつるつるで、硬質であるに違いない。あるいはヌメヌメとしているのかもしれない。けれども一般的な「幸せ」に付随するイメージとして、つるつるであるとか、硬質であるとか、そういうものはあまり出てこないのではないかと思う。あたたかいとか、ふわふわであるとか、そういう性質のほうが浮かびやすいと思う。しかし、そうした一般的な「幸せ」のイメージから、真逆というほどではない。あからさまに奇を衒ったようなおかしみがあるのではなくて、「なんかズレている」と言ったほうがたぶんこの場合には合っている。
 狙ったわけではなく(それを狙っているのだが)、あくまで自然に、イメージがあらぬ方向へズレていってしまう。このあたりはなんというか、笹井フォロワー*1wikipedia:笹井宏之)っぽい。
 また、「かに」が「カニ」でもなく「蟹」でもなく、「かに」であること、その「かに」が定型の真ん中で、あたかも異物のようにぽっかりと浮いている位置にあることも、この歌の不可思議な感じを支えている。


  海はどうしようもなく塩辛いということを忘れているねこの言葉たち


 カミハルさんにしては珍しく、大胆な破調のある歌である。上の句は「海はどうしようもなく/塩辛いと/いうことを」だろうか。11・6・5だから初句が圧倒的な字余り、二の句が1字足らずになる。けれどもこの歌を読む人はおそらくここに無理やり5・7・5の定型を当てはめてギクシャク読もうとはせずに、「海はどうしようもなく塩辛いということを」と一本調子にさらっと読み上げてしまうだろうと思う。17音に対する22音、上の句まとめて5音の余りとして処理されることになる。
 一般的に字余りは、読者の定型意識がむりやりに定型のリズムに当てはめようとすることで、性急な印象を与える効果を持つ*2。「海はどうしようもなく塩辛いということ」は、かなり性急で喫緊性の高い情報として提示されている。
 「海はどうしようもなく塩辛いということ」は、端的に言えばまったくの事実であるのだけど、そういった味覚情報は特に、「海」というモチーフに人が詩的な抒情を添えようとするときには、顧みられることがない。おそらく味覚や触覚、嗅覚といった感覚は、視覚や聴覚とは異なり、記録媒体や再現媒体を持たないぶん、言葉の表層に付随するイメージから乖離してゆきやすいのだろうと思う。現代における言葉のリアリティというのは、視覚と聴覚にばかり依拠しすぎているのかもしれない。
 「海」ということばの詩情は、海の実像から乖離している。そのことをカミハルさんは、警鐘を鳴らすがごとく大げさに、性急な言い回しで指摘しているのだ。
 こういう詩情に対するシニカルなスタンスというのは、出過ぎた言い方をすれば、なんだか僕っぽいなと感じるのだけれど、下の句の「忘れているねこの言葉たち」という言い回しは、僕にはたぶんできないだろうなと思う。
 この下の句によって、シニカルな笑いがはっきりと読者の側へと差し向けられるのだ。一緒になってニヤリとしていたらそのまま顔が引き攣ってしまうというような、独特の味わいがある。 


  民主主義みんみんしゅしゅぎと歌えます危険な思想を抱いています


 言葉というのはほんらい、意味や文脈を伴ってしかそこに在ることができない。こういう言い方はそもそも奇妙で、ことの順序としてはおそらく、散文の次元においては、音韻や表記は意味を帯びるためにそこにあるのだし、その順序や配置は文脈と文法によって統べられるのだ。だからこそ、音韻や表記が意味や文脈から解き放たれて、純粋な音韻、純粋な表記としてそこに在ることができるのは、韻文の大きな魅力であって、同時に韻文の散文にはない価値なのだろうと思う。
 上の歌で解体、解放、されているのは「民主主義」だ。それ自体はかなり強烈なタームで、強固なベクトルを持っていることばなのだけれど、ここではかなり強引に無力化されている。「民主主義」がさらに「みんみんしゅしゅぎ」と、音韻のレベルで解体再構成されることで、「みんみんしゅしゅぎ」とひとつながりの、無意味な「ことばの響き」になってしまう。なまじ「民主主義」がその意味や文脈に親しい漢字表記のままであるぶん、そのアナーキーさもひとしおである。しかしこうしたアナーキーな振る舞いができるのは、やはり韻文の特権なのだろう。せっかくの特権なのだからみんなもっと振りかざしたほうがいい。31音縛りの散文を書いてどうするというのだ。
 でも「危険な思想を抱いています」という下の句は、なんだかもう少し改作のしようがある気がする。「危険な思想を抱いて」いるのはべつに上の句を読めば理解できるし、それを改めて説明されると、「ああ、なんだ結局ふつうか」と思われてしまう。

 しかし、こうしていろいろ書いてみると、「面白さ」というのはそもそも言語化以前の、言語未満の感覚で、それについてああだこうだと言葉をこねくりまわすのは、すごく不毛で無粋なことなんじゃないかみたいなことを思う。だから、みなさんもどうかご自分で、ユーモアを肌で感じて下さい。
(第4回へ続く)

*1: 故・笹井宏之氏の短歌に影響を受けたと思しき人たち。「繊細な感性」みたいなものを詠むけれど、そういうのはやろうとしてなかなかうまくハマるものではないように思われる。

*2:加藤治郎著『短歌レトリック入門』の「破調」項にそんなことが書いてあった。