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稀風社ブログ

稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。

カミハルさんの短歌について 第4回:詩人の不在

連載 suzuchiu


  透明度 私のいない湖を見つめ続ける私の瞳


 便利な言葉だからここまでずっと詩情詩情と言ってきているのだけれど、そもそも「詩情」とはいったい何なのだろう。「詩情」を紡ぎ出し、読み取り、共有する「詩人」とはどこにいるのだろうか。また、それらは果たして自明な存在なのだろうか。
 これは僕の素人考えだから、まるで見当違いか、あるいは誰かの二番煎じかのどちらかだと思うのだけれど、「詩人」はおそらく、<私>の中にいる。われわれの中にはひとりに対して必ずひとつの<私>があてがわれていて、その<私>という共通認識の共有を前提として、「詩情」は取引される。だからそういう意味では、「詩」、つまり「詩人」間における「詩情」の流通というのは広義の共感の体系なのだろうと想像される。個々の独立した<私>と<私>を繋ぐものとして、「詩情」はあるのだ。
 そういう前提を確認したうえで、上に引用した歌を読んでみると、なんだかひどく不安な気持にならないだろうか。
 <私>というのは私が自分自身のすがたを客観的に認識すること、いやらしい言い方をすれば私の自意識によってささえられている概念だと言っていい。そうすると、この歌の中における「私」の視線もまた、湖面を媒介として、「私」から<私>へと回帰するはずである。しかし、この本来ループを描いて永遠にその輪を行き交い続けるはずの視線が、この歌の中ではどういうわけか、あらぬ方へと突き抜けていってしまう。
 この「私」の中に<私>はいない。そこにあるのは、ただひたすらに透明で、茫漠とした虚無である。「私の瞳」は「私」の内なる<私>の不在をただ見つめ、映し続けている。
 そして、この極めて危うい情景をギリギリのところで成立させているのがこの歌の巧みな構成だ。「私のいない湖を見つめ続ける私の瞳」という情景は、前の「透明度」ということばを受けるものとして配置されている。この情景はひとつ上のメタな次元で、「透明度」、「透明」という概念にかかる修飾として機能しうるのだ。ぞっとするほどの「透明度」。情景の中の視線は循環しないままだが、情景ごとメタレベルの額縁にはめ込むことで、この危険な情景をある程度緩和することができている。


  世界人類みんな絶滅したけれど雲量は7だから晴れです


 この歌になるといよいよ、<私>どころではなく、<私>を内包しうる「私」自体がいなくなってしまう。
 とはいえ、観測者の存在なしにこの歌を成立させるリアリティはつくられ得ない。だから観測者自体は居て、「雲量」を日々観測し、天気を判定しているのだろう。それが人類でないとすれば、たとえば自動化されている測候所の観測機器であるとか、そういう一人称の観測者の存在を余白に想定することができそうだ。
 もちろん機械には「私」も<私>も無い。未来にはたとえば自我を搭載したAIができて、それが天候観測をするのかもしれないが、むしろそういった「私」の定義の揺らぐグレーゾーンに踏み込むほど、<私>なるものの存在への疑いも際立ってくる。AIに自我は、感情はあるのか。<私>なるものを持ちうるのかという問題は、SFや科学哲学の領域では古くから論じられている。
 「世界人類みんな絶滅した」という歌中事実も、僕たち人類?にとってはショッキングな事実として受け止められ、そのことは<私>の共有をよすがに広く共感されうる。しかし、この歌の「私」であるところの観測者が、この「世界人類みんな絶滅した」という事実についてどういった感情を抱いているのか、そもそも感情を持っているのか。全く想像することができない。観測機器ちゃんを勝手に擬人化(擬<私>化)して、勝手に感情移入することならできるだろうが、おそらくそれは「共感」という機能の、あるいは<私>という器官の、おぞましく畸形的な一面の発露だろう。
 僕たちはこの理論上共感不可能な歌を、おそろしく深いディスコミニケーションの溝ごしに眺めるしかない。この歌が平明な散文調であることも、相互理解が不可能であることの絶望感や不安感をよりいっそう引き立てる働きをしているように思う。

 おそらく短歌を詠む人はほとんどすべて、「私」の<私>の存在を意識せざるを得ないだろうと思われる。それほどまでに、この短い詩型にとって「私」の<私>は密接に関係していて、そしてそれを剥ぎ取るのは容易ではない。
 気が付けばだれも皆、万人が<私>を共有していることをあたりまえの前提として、共感を求めて「私」の話を歌にしてしまう。共感したい人たちと共感されたい人たちがそれぞれいて、その輪の中で共感という貨幣はいつまでも取引され続ける。中には巨万の共感を手にするものもいるだろう。しかし、これでは閉じた輪の外へ言葉が届くことも無ければ、自ら輪の外側を見ることすらできない。その共感の内輪を脱すべく、「私」を離れ、歌から<私>を剥ぎ取ろうとするとき、そのすさまじい痛みによってようやく気付くのだ。
 僕はカミハルさんほど、<私>について繊細に自覚的で、何より誠実に対峙している人を今のところほかに知らない。「世界人類~」の歌も、矛盾している光景を歌った、いわば「ツッコミ待ち」のユーモラスな短歌というふうにも読めなくないし、そう読んだとしてもまあ面白い。しかし、僕にはあの歌は、かなり深いレベルでの<私>への自覚が無ければ到底詠めないものなのではないかと思われる。
 カミハルさんは口では「短歌はそんなに好きじゃない」とか「詩よりも○○のほうが面白い」とか嘯いているけれども、やっぱり実際は詩が好き、いや、好き嫌いに関わらず、詩から逃れようのない人であるに違いないと思う。
 ようやく何か結論らしきものをひねり出せたので、このあたりで終わりにしたい。