すずちうさんの短歌について 第6回:すずちうさんの短歌のこれから、への導入
さて。以上私たちが確認してきたように*1、これまでのすずちうさんの短歌は、今まで確認してきた「1.普遍性」「2.物語性」「3.ユーモア」「4.〈私〉の不在」の4つのキーワードによっていくらか分析することが可能とおもわれる。このキーワードを発展的に用いることで、これから問うべき最重要課題、すなわち「すずちうさんの短歌はこれからどうなるか」にある程度の見通しを与えることができるだろう。
だがまずは、議論の煩雑化を避けるためいまいちど、ここまでの内容をまとめておこう。
【6・1 ここまでのまとめ】
4つのキーワード、「1.普遍性」「2.物語性」「3.ユーモア」「4.〈私〉の不在」の関係を整理しよう。
すずちうさんの短歌は、『安易に「固有の体験」性を表に出すのではなく』*2、「1.普遍性」を目指すものが多い。そしてこの「1.普遍性」を具体的に実践する方法が、固有の体験を否定する「2.物語性」を備えた短歌であり、また普遍的な表現対象としての「3.ユーモア」であった。このような「普遍性」を目指す、「物語」的な、あるいは「ユーモア」に満ちたすずちうさんの短歌は、必然的に作者の〈私〉を否定する、つまり「4.〈私〉の不在」を読者に知らしめる短歌になる。
部分的に繰り返しになってしまうけれども、具体的に、すずちうさんの短歌をいくつか引いてみよう。
まず、「2.物語性」を強調することによって、ある種の「1.普遍性」を目指す作品には、次のような歌がある。
ともだちの観察日記をつけている ともだちとしてきみが好きだよ
「なんとなく」そんな理由でこの人は私を海へ連れ出すなんて
透明な水満ちている放課後へ君は指先から落ちてゆく
あざやかに黒板消しをすべらせて「2組最高」消す用務員
一方、「3.ユーモア」を主題とし、普遍的(生理学的)な反応として笑いを引き出そうとする作品には、例えば次のような歌がある。
「きみと一緒なら何処へでもゆける」「例えばどこ?」「イタリアとか?」「あー」
「穴の空いたおたまってあれなんて言うの?」「穴の空いたおたまじゃないの」
先生が急速に右傾化してとうとう横になってしまった
生きている豚に灯油をぶっかけて生きたまま焼く伝統料理
このような物語的・ユーモラスなすずちうさんの歌は、歌の向こう側に〈私〉としての〈すずちう〉像を決して結ばせることがない。それを、「4.〈私〉の不在」として、とりあえず述べることができるだろう。
すずちうさんの短歌は「1.普遍性」を目指すことによって、「4.〈私〉の不在」を実現させようとする短歌である。
【6・2 これからの方向性】
以上が、ここまでのまとめである。
さてでは、ここから私たちはいよいよ本格的に、すずちうさんの短歌への論考にとりかかることになる。すずちうさんの短歌のこれから、はたしてどのようなものになるのか。
先に議論の、おおまかな方向性を示しておこう。
まず問わなければいけないこととして、すずちうさんの短歌はなぜ「1.普遍性」を目指すのか、ということがある。これは結局、すずちうさんの短歌はなぜ「4.〈私〉の不在」を目指すのか、と言う問いである。
この問いに答えることによって、すずちうさんの短歌の根底にある目的意識を発掘することができるだろう。目的意識、つまりはある種の「原理」である。すずちうさんの短歌を駆動する「原理」を発掘することによって、「これからのすずちうさんの短歌」もまた演繹的に予想することが可能になる。
つまり、これから問われることはふたつである。
大問「すずちうさんの短歌はこれからどうなるか」
小問「すずちうさんの短歌はなぜ「4.〈私〉の不在」を目指すのか」
小問の答えをある程度明確にすることによって、大問に答えるための足がかりとすることができる。
議論の方向性の吟味はこのくらいにして、さっそく、本題に入ろう。
【6・3・1 すずちうさんの短歌はなぜ「〈私〉の不在を目指す」のか ― 1 矛盾する〈私〉】
【6・1】において私たちは、『このような物語的・ユーモラスなすずちうさんの歌は、歌の向こう側に〈私〉としての〈すずちう〉像を決して結ばせることがない。』という文章を確認した。しかし正確に言えば、すずちうさんの短歌から〈私〉を読者が作り出すことは決して不可能なことではない。いやむしろ、容易とすらいえるかもしれない。
すずちうさんの短歌は、一読ですずちうさんの短歌とわかるような強烈な個性を持つものが多い。私は現在の歌壇事情については全く精通していないから、正しいことはわからないのだけれども、すずちうさんの短歌と「同じような」短歌を詠むひとは、ほとんどいないのではないかとおもう。少なくとも、『現代短歌鑑賞辞典』的な本とか、たまに図書館で読む『短歌研究』とか、あるいはツイッター上には、みかけていない。この個性をとりあえず〈すずちう性〉と呼ぶことができるだろう。
この〈すずちう性〉に敏感なひとであるならば、同じような性質を共有する歌を都合のいいように切り貼りすることによって、笹公人フォロワーとしてのすずちう、マイノリティとしてのすずちう、学生としてのすずちう、などなど、いくらでも〈私〉的なものを創造することが可能なはずだ。
例えば次のような短歌を並べると、すずちうさんの短歌は「カミハル的」な短歌になるのではないか。
きらきらと午後が切り刻まれてゆく木漏れ日だけが証拠なのです
潮騒のようにやさしく語られる童話の意味をきみは知らない
祈られることのなかった神様があなたのためにはるかぜになる
しかしそれらの様々な解釈は決して、本質的なものとしては現れないのではないかと、私たちは疑わなければならない。なぜか。
すずちうさんの短歌は強烈な個性(=すずちう性)に彩られながらも、ただひとつの〈すずちう〉像に還元され得ない、多様性を同時に持ち合わせている。だからどの作品を組み合わせるかによって、結ばれる〈すずちう〉像はいくらでも変化してしまう。
すずちうさんの短歌の多様性を例を用いて確認してみたい。
ほんとうにやさしい人は「さよなら」の語彙をたくさん持ち歩いてる
きちがいを集めてコンプリートしようキミの人格障害ずかん
ここに引いたふたつの歌には明らかな内容上の対立がみられる。対立を「矛盾」と言い換えてもいいかもしれない。一方には、数多の共感をひきよせるような「やさしさ」、「ほんとう」を目指す無垢への憧れがみられる。しかし他方には、「きちがい」「人格障害」という言葉をさらりと使用し、さらには「人格障害者」をポケモンのように「ずかん」にコンプリートさせてしまおうとする、非社会的な自由奔放さがある*3。一方は「やさしさ」に基づく純真さであり、他方は、倫理への興味を全く持たない自由さである。ある面から見れば似ているともいえるが、しかし決して融け合うことはない。
すずちうさんの短歌には、このような「矛盾」が多く抱え込まれている。
他には例えば、短歌を少し離れると、「呪詛」と「ユーモア」の対立を指摘できる。すずちうさんの短歌は、ツイッターですずちうさんの短歌の作者がしばしば言及するように、共感を呪う「呪詛」という面を強く持つ。しかし一方で、その表現には絶えず相手の好感を求める「ユーモア」が忍びこむ。
すずちうさんの短歌における「〈私〉の不在」は、カミハルさんの短歌に見られるような「〈私〉の透明化」とは、実は全く異なっている。すずちうさんの短歌における〈私〉的なものは、透明になろうとするのではなく、そこに物質としてあろうとしながら、ただひとつの〈私〉に統合されることを拒むのだ。そしてその原因は、〈私〉の内部に孕まれた「矛盾」である。
この「矛盾」を解き明かすことで、『すずちうさんの短歌はなぜ「〈私〉の不在を目指す」のか』への答えを得ることができそうだ。だから問いは次のように変形される。
『すずちうさんの短歌はなぜ「矛盾する」のか』
以降の節ではこの問いについて考えてみたい。
【6・3・2 すずちうさんの短歌はなぜ「矛盾する」のか ― 2 試論:精神分析学的に】
さてこそ、俗流の精神分析学批評をここに用いれば、作者による〈私〉の抑圧の結果としてこれを簡単に説明することが可能である。もっとも私たちは決して、精神分析学の専門家というわけではない。だからこれは試論の枠を超えない。そう断ったうえで、しばし考えてみたい。
すずちうさんの短歌は〈私〉であることを執拗に避けている。それが「〈私〉の不在」として作品にも顕現している。ここに、すずちうさんの短歌の作者の無意識による、「すずちうさんの短歌の作者の〈私〉」の抑圧を見いだしても、おそらく無理はないとおもわれる。
すずちうさんの短歌の作者は〈私〉を抑圧している。つまり作者は、〈私〉を怖れている。〈私〉の過去の記憶を怖れている。よって、〈私〉を作中から排除しようとする。しかし同時に、作者は〈私〉を願望してもいるのではないか。
例えば、怖れられているものは「すずちうさんの短歌の作者の〈私〉」の過去に生じたトラウマであるだろう。また願望の対象とされるものは、未来に夢見られる、理想的な充足した〈私〉ではないか。
このような〈私〉の抑圧。恐怖と願望。ふたつのアンビバレンツな衝動が、すずちうさんの歌の「矛盾」を説明しうるとおもわれる。
すずちうさんの短歌の作者は、その抑圧に、無意識の防衛機制に、過剰に囚われているようにもおもえる。それが作者自身の〈私〉のみならず、他者の〈私〉の嫌悪にも繋がっているのではないか。他者の〈私〉の嫌悪とはすなわち、他者の共感の拒絶である。それゆえの呪詛ではないか。すずちうさんの短歌は、他者の〈私〉には向かわない。かといって、作者自身の〈私〉にも向かえない。
しかし共感を拒絶するのならば、〈私〉を否定するのならば、そもそも短歌など詠まなければよいのではないか? このような一見妥当ともおもえる問いかけは、しかしここでは通用しない。すずちうさんの短歌の作者による〈私〉の抑圧は、一方で、〈私〉への願望でもあったのだから。歌は、完全に閉じこもることができない。〈私〉への願望が回帰する、それが歌として表現される。恐怖される〈私〉には決して向かうことはできない、しかし願望される〈私〉に向けて表現されなければならない、そのような場面で可能となる表現といえばもはや、普遍的なもの、例えば物語、例えばユーモア、しかないのではないか。
あなたはどうおもうだろうか?
【6・3・3 すずちうさんの短歌はなぜ「矛盾する」のか ― 3 各論へ】
閑話休題。俗流精神分析学的な解釈を上の節では、試論として、たわむれに用いてみた。だが私たちは、このような方法を決して取らない。なぜか。
第一に、私たちはけっして精神分析学の専門家というわけではない。専門外の知識をいたずらに流用することは慎むべきだろう。そして第二に、専門家でない私たちの用いるそのような方法は、残念ながら破綻せざるを得ない。
いたずらに用いられる精神分析学的手法は、万能の矛じみた、文字通り「あってはならない」方法と化してしまう。先の議論を続けるとしよう。そのとき私たちは、私たちの理論に適する表現があれば、それを採用するだろう。そして私たちの理論に反する表現があったとしても、それは作者の無意識の反映であり本意はこの真逆にあるとして、私たちはやはり解釈しなおして採用するだろう。結局、すべては私たちの思い通りになってしまう。専門家でない私たちには、議論の当否が判断できない。
だから私たちは、上の【6・3・2】節をまるごと廃棄しなければならない。
では私たちは一体どのようにして、『すずちうさんの短歌はなぜ「矛盾する」のか』に答えを見いだすのか。
ここから私たちは、一足飛びにすべてを説明しようとするのではなく、ひとつひとつの短歌を各論的に見ていこうとおもう。その中で、すずちうさんの短歌の「矛盾」に関して、帰納的に、共通の原理を見出していこうと計画している。さすがにひとつの記事が長くなりすぎたので、ここでは以降の流れをスケッチするに留めておく。
まず次回、私たちは「学校」というひとつの空間を軸にしてすずちうさんの短歌を読むことになる。学校には、大人と子どもが、それぞれ異様な仕方で詰め込まれている。学校においては、子どもが、先輩という「大人的なもの」になりうる。また大人が、生徒の友だちという「子供的なもの」にもなりうる。あるいは男女という対立。さらに、学校は非本来的・人工的な社会でありながら、ほとんど誰もが経験するあまりにも普通すぎる社会でもある。このような「矛盾」した学校空間と、すずちうさんの短歌を対比しながら、すずちうさんの短歌への理解を深めたい。
そして次々回、私たちは、「愛」と「分散」というキーワードを軸にしてすずちうさんの短歌を読んでいく。相反するこれらの要素が、すずちうさんの短歌においては両立するようにおもわれるからだ。
これらの議論を踏まえた上で、最終回では、すずちうさんの短歌への現時点での最終解を求めようとおもう。それはおそらく、意志の矛盾を無効化するための「物質主義」に行き着くだろう。そして得られる結論は、いまの私には、「〈すずちう〉は死ぬ」と見えている。
以降の展開は、このように予定している。
今回は、以上で終わりにしたい。長文、失礼いたしました。
(第7回へ続く)