稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。

『誰にもわからない短歌入門』試し読み(2/4) 永井祐×三上春海×鈴木ちはね

『誰にもわからない短歌入門』試し読み企画二日目

 今回は第一回にアップした三上春海評に対する鈴木ちはねの返信を掲載します。
 (第一回は以下のリンク先でご確認ください)
 『誰にもわからない短歌入門』試し読み(1/4) 永井祐×三上春海 - 稀風社ブログ

(2) 返信

 あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる
   永井祐『日本の中でたのしく暮らす』


 永井祐のカジュアルで発話的な文体は「ポスト・ニューウェーブ」の代表格とも言われ、この一首においてもそうした文体のエポック性は上の句の大胆な韻律や「生きてく」のフランクさ、あるいは「赤で横断歩道を渡る」の「赤で」の換喩的な語りの省略などに表れている。しかし三上さんは、そうした目新しい側面ではなく、この一首の抒情の構造の側面からの評をしてくれている。そして三上さんの言うように、文体の目新しさを除けば、永井祐の短歌というのは、意外にも「生活」からの「生」への直視というきわめて「近代短歌」的な「写生」の構造を持っているということがわかるのだ。
 歌の修辞が「近代短歌」的であるにも関わらず、その修辞の着地点がなぜ「あと五十年生きてく」という、「近代短歌」的とは言い難い、なんともぼんやりとした「生」の認識になってしまうのかという問題が、「近代」と今とを隔てている何かであるのかもしれない。「生活実感」から「生」を直視しようとしても、そこにはっきりとした切実な実体感のある「生」を認識することが難しい時代であるということだろうか。そしてそういう時代の空気や感触を永井はあくまで順接で提示してくる。あくまでそう見えるものはそう詠む、という自然主義的な姿勢もまた「近代」の手法であり思想だ。「近代」とは呼び難い今の時代にあって、冷徹なまでにストイックに「近代」を貫こうとする姿勢が、同時代にあっての永井祐のひとつの特異性であるのかもしれない。


  死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり
    斉藤斎藤人体の不思議展(Ver.4.1)」『風通し』創刊号(2008.11.30)


 文明が進歩し科学が発展する中で、生活の中の「死」のリアリティはどんどん不可視のものになりつつある。「なりつつある」という言い方でさえ欺瞞であって、本当は僕たちはすでに限りなく「死」が不可視になったあとの時を生まれ、生きているのかもしれない。「死」が遠ざかることで、「死」の裏写しの概念であるところの「生」もまた、当然のように実体感を失っていく。既にそうなったあとの今にあって「生」を「写」すには、逆説的に「生」の実感の薄さ、「死」の遠さを詠むしかないのだろうか。
 ぼくたちはいつか死ぬ。それは五十年後かもしれないし明日明後日かもしれない。しかし明日に僕たちが不運にも突然死ぬとして、そのことを僕たちはあくまでも限りなく低い確率としてしか捉えられないのかもしれない。あるいはぼくたちが病や事故で死ぬことなく老衰によって死んでいくとして、そのこともまたある程度の確率や期待値としてしか認識することができないのかもしれない。二〇〇八年のイチローはMLBで自身五度めのシーズン最多安打を達成し、三割五分一厘の打率を残した。(鈴木)

  (評者:鈴木ちはね)


 明日は三上春海推薦の一首に対する鈴木ちはねの評を掲載します。

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