稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。

『誰にもわからない短歌入門』試し読み(4/4) 花山周子×鈴木ちはね×三上春海

『誰にもわからない短歌入門』試し読み企画四日目

 試し読み企画は今回で最終回となります。今回は前回にアップした鈴木ちはねの評に対する三上春海の返信を掲載します。
 (第三回は以下のリンク先でご確認ください)
 『誰にもわからない短歌入門』試し読み(3/4) 花山周子×鈴木ちはね - 稀風社ブログ

(21) 返信

 くしゃみをしたいときは光のほうを見るのだとそうするとでると母言いたまう
   花山周子『風とマルス


 『「くしゃみをしたい」私』の存在はこの歌には書かれていないのだけれども、それを感じとっている鈴木さんの読みは、おそらく鋭い。この歌は字義的には「母親は~と言う」という意味しか含んでいない。けれども同時に、それを回想している「私」の存在を、さらに言えば「くしゃみをしそうになって母親の言葉をおもいだした私」の存在を読者につよく意識させる、そんな文体をしてもいる。この妙なリアリティの原因のひとつに、「言い給う」などのもったいぶった言い回しと、大胆な破調があるだろう。字義通りの意味を表現したいだけならばわたしたちはこんなまわりくどい言い方はしないからだ。大森静佳は結社誌『塔』二〇一五年六月号の時評で歌集『風とマルス』について、『「肉筆」性の濃い』『作者のなまなましい体臭を強く感じさせる』歌集であり、『文体や感覚のねじれ』が『なまなましい肉体を与えている』のではないかと考察していた*1。加えて「くしゃみをしたいときには光の方を見る」という真偽不明の情報もまた、このリアリティの一端を担っている。短歌にリアリティが生じるためには状況がよくわかりすぎるのも、逆にわからなさすぎるのもだめで、わかるけれどもわからない、という微妙なゆらぎこそが重要である場合が多い。かつて穂村弘は『短歌においては(…)社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい』(『はじめての短歌』二〇一四)と述べていたけれど、この発言は掲出歌の「仕組み」の部分を見事に言い当てているようにおもう。


 それで。鈴木さんはこの歌から、ひとすじの時間軸として記述される「時間」と、記述される前の「原時間」と呼べるものについて思考を進めていたのだった。前者の「時間」の存在をわたしたちは当然のものとして、時間が「経過する」とか、「流れる」という言い方を普段している。でも時間が川のように一定速度で流れているとするとある問題が生じる。わたしたちが時間の「流れ」の中にいるならば、川の水と川に浮かんだ葉屑が同じ速度で動くように、わたしたちと時間も同じ速度で動かなければならなくなる。するとこのときわたしたちにとって時間は流れていないことになる。だから時間が「流れる」という言い方はじつは正しくない。流れるものとしての「時間」は、「時間の中に生きているわたしたち」を捨象したときに記述される二次的な概念でしかない。


 言語によって記述された「時間」「思考」ではなく、記述される前の、わたしたちがいま生きている「原時間」「原思考」というものがどうやらある。それらへの志向を鈴木さんは多分肯定している。ここにある、「生きている」ということの「真実」を突き詰めようとする姿勢、この「生」へのきらめくような信仰が、大森の時評にも、花山の短歌にも、さらにはわたしたちの短歌というものに普遍して見られるような気がする。
  (評者:三上春海)

【お知らせ】

 試し読み企画のバックナンバーと第21回東京文学フリマのWEBカタログは以下になります。
『誰にもわからない短歌入門』試し読み(1/4) 永井祐×三上春海 - 稀風社ブログ
『誰にもわからない短歌入門』試し読み(2/4) 永井祐×三上春海×鈴木ちはね - 稀風社ブログ
『誰にもわからない短歌入門』試し読み(3/4) 花山周子×鈴木ちはね - 稀風社ブログ
稀風社@第二十一回文学フリマ東京エ-20 - 文学フリマWebカタログ+エントリー
 試し読み企画では本文の中から永井祐評,花山周子評の部分を抜粋して紹介いたしました。この続き・残りは書籍版『誰にもわからない短歌入門』でお読みいただけます。
 第21回東京文フリでの稀風社のブースはエ-20です。11/23(月)は東京流通センター第二展示場にて,みなさまのご来場をお待ちしております。

*1:引用註:この時評は次のリンク先で読むことができる。肉筆の「肉」を感じさせる | 塔短歌会