稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。

よい島・一首評01

 東京文フリ24新刊「よい島」より、小田島了「春の形骸」の一首に対する鈴木ちはねの評です。

きみのからだをわたしは楽器としてつかい楽器として戸棚に仕舞う

 小田島了「春の形骸」『よい島』(稀風社)


 この歌の肝はなんといってもこの「仕舞う」という動作だろう。というより、この「仕舞う」のほかに、生身の感触としての焦点を結ぶような表現や所作は詠まれていない。「きみのからだをわたしは楽器としてつかい」という言いまわしが目を引くのだが、「つかう」というのは非常に意味の幅の広い動詞で、その文字列だけではことばの辞書的な意味以上の実感は得られない。「楽器として」と言ってもそれが管楽器なのか弦楽器なのか、あるいは打楽器なのか、そういうディティールが提示されていない以上、そこから具体的な、生身の感触を伴ったイメージを掴むことはむずかしい。とするとやはり、この歌読むことで最終的に立ちあがるイメージというのは、「戸棚に仕舞う」光景、あるいはその手つきしかない。


 生身の感触を伴ったイメージ、あるいは質感というのは、いわゆるリアリティ(現実感)のことではない。リアリティについて言うのであれば、この歌にはそういう叙述としてのリアリティは無いと言って差し支えないだろうと思う。ただ叙述の意味を追っていくかぎりでは、ある種のサディスティックな官能性は読めるにしても、大筋では荒唐無稽の域を出ていかない。


 でも、この歌はただそれだけの歌だろうか。単に叙述として荒唐無稽というよりも、僕にはむしろホラー的な静謐な質感が感じられるように思われる。なぜだろうか。


 結局最初の話に戻ってしまうのだけれど、やはりこの歌の質感的な要素がすべて「仕舞う」という所作の一点にとどまっているということが、この歌にある種独特な雰囲気を纏わせているのではないか。この場合、生々しい質感の大きな欠落が、逆説的にただ一点の質感的な要素だけを際立たせるということだろうか。だとすると、こういう不気味で静謐な質感のイメージは、むしろ質感の欠落によってもたらされているということになる。


 このあえて質感を欠落させる、という技法は、おそらくかなり難しい、一般的な作歌の作法とはかなり反するものだと思う。ふつうは逆に、三十一音という限られたテクストの中で、できる限りそれに生々しい質感を付与させようと苦心するものではないだろうか。すくなくとも言葉を主に自己から他者への情報伝達の手段ないし道具(メディア)として用いる限りでは、およそ出てこない手法であるはずだ。そういう言葉の持つ散文的なバイアスに対してあくまで慎重に抗いながら、この歌は作られたのではないか。


 こういう反散文的な小田島の作歌スタンスによって構成される独特の空間様式が、百首連作という長さ、広さ、密さで誌上に実現したので、その様相はどうか『よい島』を手にとって皆さんのその目で確かめてほしい。


 評:鈴木ちはね




 文学フリマまでの間、「よい島」から、他にも何首か歌を紹介していきます。
 「よい島」をどうぞよろしくお願いいたします。