稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。

よい島・一首評03

 東京文フリ24新刊「よい島」より、三上春海「犬の国」の一首に対する小田島了の評です。


NOと言うことができないぼくたちがNO MORE WARをMORE WARにする
    三上春海「終わりとそのあとで」『北大短歌第四号』


ぼくらがいちばんきれいなときに  きのこ雲  自撮りをしたりするのだろうね
  三上春海「記憶と記録」『墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった』


 三上春海は「戦争」の匂いのする言葉をかなり意識的に使ってきた。上記では「WAR」そして「きのこ雲」を詠み込んでいる。ほかにも「戦車」「戦闘機」「銃」などの兵器も歌のなかに登場させてきた。「戦争」というモチーフは三上の短歌作品のなかで重要なポジションにある。そのような三上の「戦争」詠の系譜の上に、またひとつ新たな作品が加わった。

戦争に行きたくないと言うけれど戦争が来るのはどうだろう

 三上春海「犬の国」『よい島』(稀風社)


 初読時、わたしはこの歌に思わず膝を打った。三上春海の今までの「戦争」詠・「言葉遊び」の積み重ねがこんな場所に結実するとは。正直、この一首があるだけで『よい島』を買う理由としては十分だろう。


きみがしていてぼくもしているセックスをされているのは誰なのだろう
  三上春海『透明な幼稚園』


九時半になろうとしてる 九時半にわたしはきっとなれないけれど
  三上春海(初出不詳)


 今までも三上は「セックスをしている」「九時半になる」といった動詞に注目し、それらの動詞に(三上の手を放れたところを)自走させるような歌を作ってきた。この「戦争が来る」歌もそれらに近い。
 「戦争に行きたくない」という言葉、きな臭くなっていく世相に対してこの言葉を使って「抵抗」する若者たちをメディアは伝える。そうでなくとも、「戦争に行きたくない」という発想は広く共有されたものだろう。「だれも戦争をしたくないし、戦争に行きたくもない」、そのような意識をベースとして、わたしたちは外交を・政治を進めてきたのではなかったか。そのような「戦争に行きたくない」を取り扱うこの歌の手つきはどうだ。「戦争が来るのはどうだろう」と言ってすませてしまう、この三上春海の手つき、それにわたしはくらくらする。
 この歌では「戦争に行きたくない」の「行く」という動詞、それを機転として「行く」の逆の「来る」が導き出される。そして「来る」から「戦争が来る」というコロケーションが忍び寄り、それを「どうだろう」という乱暴な、それでいて鷹揚なテンションが締める。「戦争に行きたくない」にまつわる大量の文脈が、この歌ではねこそぎ無視され、抜け落ちている。政治的な諸々や個人的な感情はここではすべて捨象されている。この歌において「戦争に行きたくない」というフレーズは、「行く」という動詞を含んでいるその一点の価値によっている。


 これを、どうとらえるべきか。


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 「戦争」という言葉は厳密な使い方が要請される。「戦争」は使い方によって、いくらでも社会的・政治的なメッセージを引き出すことになる。たとえ使い手が意識していなくてもだ。だからこそ、わたしたちは「戦争」という言葉を注意深く扱い、無闇に使わないようにしている。
 それに対してこの三上の「戦争」の扱いは、そのような「思慮」が足りなくはないか。この「思慮」の足りなさは、三上が実際の「戦争」に対して目を逸らしていることの裏返しではないのか。「戦争」のミリオタ的な「かっこよさ」に寄りかかっているか、若者特有のサバイヴ感の延長に言葉の上での「戦争」を見いだし、それに惹かれているだけではないのか。
 この「戦争」はあまりにも安易ではないか。


●●●


 というような反発はあってしかるべきだし、一理あると思う。三上の「戦争」がはたして現実の「戦争」を直視した上で書かれているのか。それはこの歌からは判断できない。なにか具体的な「戦争」を念頭に置いているようにも思えない。しかし、だからと言ってこの歌の「戦争」は安易な選択に過ぎないのだろうか。この「思慮」の足りなさは否定的に見るべきことなのだろうか。
 そうではないだろう。この歌の「戦争」は安易な選択でもなければ、むしろ誠実さをたたえている。先述のようにこの歌は「戦争に行きたくない」にまつわる大量の文脈を無視している。無視したうえで平然としている。


 おびただしい量の情報が氾濫する昨今、一つの言葉にもおびただしい文脈が付与されている。それらをすべて解きほぐすことは無理で、言葉は昔にくらべてずっと重たく、輪郭もはっきりしていない。わたしたちはそんな解析度の低い言葉を鈍器のように使って過ごしている。「戦争」という言葉はそんな(文脈だらけの)言葉の筆頭と言っていい。「戦争」を接頭語のように使うレッテル張りなどはその具体例だろう。「戦争」にいびつな含みが持たされている。


 そのような現在、言葉を(一時的なものに過ぎないにしても)大量の文脈から解放し、その自由な動きを見せることには大きな価値がある。この歌はまさに「戦争」をその文脈から解き放った上で、それに自らの単純な語法の上を歩かせている。この「軽やかさ」をわたしは得難く思う。解放された言葉は(そしてそれを見るわたしも)しばらくの間自らを縛っていたもののことを忘れている。大量の文脈をふまえながら言葉を選び、危うきには近づかず穏便な言葉を用いる日々の、窒息しそうな不自由さを。そこでわたしたちは、その言葉の生の手触りを知ることになる。たとえ一時であっても、その一時によって世界の鮮やかさは回復し得る。
 韻文 ・そして言葉遊びの現代における価値はそのような「軽やかさ」の中にこそ求めるべきではないか。


 評:小田島了



 文学フリマまでの間、「よい島」から、歌を紹介してきました。
 明日の文学フリマでは、「よい島」をどうぞよろしくお願いいたします。