稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。問い合わせはkifusha☆gmail.com(☆→@)へ。

カミハルさんの短歌について 第2回:「AEDマスターめざせ女の子」をめぐって


 AEDマスター目指せ女の子 赤い真夏は体育館に


 という歌がある。これ自体はすごくいい歌だと思う。何より僕がこの歌を好きだ。
 AED講習って一般的にはすごくかったるいものだと認識しているのだけど、おまけに「赤い真夏」の体育館。あづい。僕だったら一刻も早く終わらせて帰りたい。当然やる気もない。けれどこの歌中人物であるところの「女の子」は、「AEDマスター目指」しちゃうのだ。なんて健気なんだろう。かわいいじゃないですか。
 しかしながら、この歌はその後、僕の知る限り2度にわたる下の句の改作を経ている。僕だったらこれで満足してしまうところを、2度もだ。どうしてそんなことをしたのだろう。前置きが長くなったけれども、今回はこの歌の改作過程を追いながら、カミハルさんの短歌の考え方について触れてみたい。


  AEDマスター目指せ女の子 赤い鼓動を飲みこみながら


 これが1度目の改作だ。いったい何が元の歌と変わったのだろう。
 最初に挙げた元の「赤い真夏は体育館に」の歌の欠点を強いてあげるとしたら、やはり「情報量が多すぎる」という点だろうと思う。あまりにも説明的、散文的すぎるのだ。これは<私>(=詠み手)の内面を起点としない、創作性の強い短歌(そういう用語があるわけではないと思うけど、ここでは便宜的に「物語短歌」*1と称する)にとっては、宿命的な欠点であると言える。ただでさえ短い詩形のなかで、ともすれば虚構の物語の世界設定の説明に終始してしまいがちなのだ。「赤い真夏は体育館に」という表現は、状況説明としては魅力的であると僕には思えるけれど、確かに「詩」としての力はどうにも弱かろうという点を認めざるを得ない。「物語短歌」が「物語」としての強度と、詩情を両立させるためにはどうすればいいのか。やはり、ある程度説明を省いて、情報量を軽減させざるを得ないのではないか。
 この改作では、「体育館に」と「真夏」という舞台設定の説明が結果としてそぎ落とされている。そしてそのかわりに、歌中人物「女の子」の身体感覚へとより深く踏み込んでいる。
 また、「赤い」は「真夏」ではなく「鼓動」にかかっている。「赤い」がAEDの赤色を受けているにしても、「赤い真夏」が比較的ベタな表現だったのに比べて、「赤い鼓動」というのは一読してその意味を判じがたい。そういう意味でもこの下の句はかなり説明的ではなくなっている。
 これは前作の物語性をどうしても読み込んでしまう僕の願望を含んだ読みであるのだけれど、おそらく「赤い鼓動」というのは、「女の子」の鼓動でもあり、赤いAED越しに拡張して共有される、ダミー人形の鼓動でもあるのではないか。ダミー人形にないはずの鼓動を感じとって、それが自分の鼓動と同調、共鳴してしまう身体感覚が、「赤い鼓動を飲みこみながら」なのであろう。
 AED講習などに用いられるダミー人形というのは、上半身しか無かったり、だいぶみじめな服を着ていたり、かなりみすぼらしいものであることが経験上多いと思う。しかし、この「女の子」は、たいへん真面目かつ健気に取り組んでいるからにして、このみすぼらしい人形に、かなり深いレベルで感情移入、いや「感覚移入」している。つまり、改作を経てなお、「女の子」のかわいさは維持されているのだ。いや、むしろ感覚まで踏み込むことによって、さらに強化されていると言っていい。この改作はおそらく、「物語」と「詩情」の絶妙なバランス感覚をもってしないと成しえないものだろうと思う。
 しかし、こんなに完成度を高めたはずの歌が、その後さらにもう1度改作されているのだ。いやあ、なんてもったいない。


  AEDマスター目指せ女の子 赤い体育館に心臓


 これが2度目の改作後の歌。これはなんというか、ううん、意味がわからない。僕の理解のレベルを超えていると白状せざるをえない。もはやここには「物語短歌」的なものは片鱗も残されていない。
 「赤い鼓動を呑みこみながら」への改作時にいったんご退場願った「体育館」が再登場している。しかしここまで来ると、舞台が「体育館」であるという説明に今更意味があるとも思えない。おまけに「赤い体育館」だ。「AED」にしろ「心臓」にしろ、この歌には赤いモチーフが多い。場合によっては「赤い女の子」もアリかもしれない。しかし、「赤い体育館」は。「赤い体育館」というのはいったいどんな体育館なのだろう*2
 おまけに「心臓」とは何なのか。改作前の「鼓動」には文脈上明確な意味があったのに比べて、この「心臓」はあまりにも唐突で、露骨だ。「心臓」が誰のものであるにしても。いきなり「赤い体育館に心臓」と言われて、はいそうですかとすんなり飲み下せる人はおそらく居ないんじゃないか。僕はこの歌の改作の過程を知っているから、かろうじてこれらのモチーフの出所を判じることくらいはできるけれども、知らない人がこれを読んで、改作前の物語性にたどり着くのは、よほどの想像力があっても難しいのではないか。

 とはいえ、おそらくカミハルさんとしては、おそらくこの下の句がいちばんいいということで、最終的にこの「赤い体育館に心臓」で落ち着いたのではないかと思う。その過程ではたぶん、意味や物語よりも別の、語感とか不思議さとか、とにかく読者を立ち止まらせるような表現価値のほうを優先させたのだろう。
 僕はどれがいいと思っているかというと、やはり1度目の改作を経た「赤い鼓動を呑みこみながら」がいちばんすぐれているように感じられる。ここに僕とカミハルさんの違いがあると言えばそれまでなのだろうけど、それについてはもっと深く考えてみるべきなような気もする。

(第3回へ続く)

*1:「物語短歌」のような用語があれば都合がいいなと思ってググってみたのだけれど、クソつまらなそうな歌集くらいしか出てこなかった。短歌という詩型をフィクションの語りの道具として用いるというやり方考え方自体は、むかしには「前衛」的であったのかもしれないけれど、現在それほど目新しいものではないだろう。

*2:別の方のこの歌に対する評で、「この『赤い体育館』は、少女の身体感覚が体育館全体にまで拡張されているということなのではないか」みたいな話をするのを耳にして、すごく「なるほど!」と思った。やはり僕には想像力というものが無い。