稀風社ブログ

稀風社ブログ

稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。問い合わせはkifusha☆gmail.com(☆→@)へ。

海岸幼稚園特集第1回『人間 vs 鈴木ちはね』(三上春海による鈴木ちはねの短歌3首)

1 短歌は人間で遊べる

 鈴木ちはねは人間を粘土のようにこねる。『海岸幼稚園』に収録された鈴木ちはねの歌には「核兵器好き好き会社員」「原型を留めていない兄たち」「一億総巡査時代」「セルフ全否定くん」「ちゃくばらいおじさん」「もとばらいママ」「寿司詰めのBABY」「ままこいじめホットライン」などの奇怪のワン・フレーズが登場するが、そのどれも人間に関わっていることは興味深い。鈴木ちはねは人間を言葉の世界で自由に回転させ、名付け、変形させ、時に蹂躙する。観察し遊ぶ手つきは幼児の粘土遊びのようだ。


   やあ! セルフ全否定くんきみの血のようなたそがれを濡れて帰る


 三首選のうち、あえて秀歌性の低いこの歌を私は一首目に選びたい。掲出の一首では「血のようなたそがれを濡れて帰る」の「濡れて」に気が利いていて、夕焼けに全身が赤く染まることが地獄絵の一景のような凄絶な状況として喩えられているが、しかし重要なのはそれ自体ではなくその前段にある「セルフ全否定くん」への「やあ!」というコミカルな呼びかけとの対比だろう。「セルフ全否定くん」とは自己否定の激しい人だろうか、のようにこの語の内実を探ることにはほとんど意味がなくて、奇怪な名称である、程度に捉えておくしかない。「やあ! セルフ全否定くん」を「それいけ!アンパンマン」のように捉えると掲出歌ではアニメ「やあ! セルフ全否定くん」と「血のようなたそがれを濡れて帰る」地獄絵の、奇妙な同時上映が行われていることになる。
 そして主体が濡れているとおもうのは「セルフ全否定くん」の血なのだった。


   BABY IN A CARを掲げるミニバンに寿司詰めのBABY 春が来る


 『海岸幼稚園』の中の人間を弄んだもう一首。寿司詰めのBABYが実景か幻覚かはどうでもよいとして「寿司詰めのBABY」というワン・フレーズを提出する意図を問題にすると、赤ちゃんの守るべきやわらかな手触りはここにはなく、書かれているのは尊厳と権利を持った私たちの知っているあの「人間」ではない。「キャラクター」と呼ぶのが最も正しい存在である。言葉の世界にしか存在しない空想のキャラクターを、積み重ね、崩し、遊び、血を流させ、その中でようやく人間の形を捉えようとする世界への危うい手つきが鈴木の短歌には現れる。「たそがれ」を喩えるため、鈴木ちはねは「セルフ全否定くん」というキャラクターを創造して流血させてしまう。旧い神のような人間へのこの厳しさを鈴木ちはねの美点のひとつとして私は挙げたい。
 さて上では「寿司詰めのBABY」と「セルフ全否定くん」をともにキャラクターとしてまとめたけれど、これらが同じカテゴリーに属していないことに注意しておく必要がある。私たちは「寿司詰めのBABY」をマンガ的なイメージの中で、ミニバンにぎっしりつめ込まれた乳幼児の画像として想像することができる。私たちに共通の「寿司詰めのBABY」のイメージはある。しかし、同じようにして「セルフ全否定くん」を私たちはイメージすることができない。「セルフ全否定くん」に画像的な存在感は皆無であり、私たちに感じられるのは言葉の組み合わせの妙味だけだ。つまり、「セルフ全否定くん」はイメージを持たず、私たちの言葉の世界にしか存在しない。
 「寿司詰めのBABY」はマンガ・アニメ的なイメージに関した想像力に基づくキャラクターであり、「セルフ全否定くん」は詩的な言語に関した想像力に基づくキャラクターであると述べられる。「セルフ全否定くん」のキャラクター性は私たちには言葉としてしか共有されない。マンガ・アニメではありえない詩の世界だからこそ許されるキャラクター、このような言葉の世界のキャラクターが鈴木ちはねの短歌にはいくつか登場する。
 鈴木ちはねが短歌において言葉の世界のキャラクターを生み出そうとすることは、マンガ・アニメ的想像力の産物が日本・世界に蔓延してゆくなか、短歌から短歌にしかできないことをなそうとする反動的な試みかもしれない。

2 人間で遊んで友だちをつくれるか

 人間と鈴木ちはねについて書いていた。人間としての鈴木ちはねはものをよく観察する。観察の対象は時にもの珍しい他人であり、あるいは人間性を感じない無機物である。鈴木に「見ること」の能力が高いから「きみの血のようなたそがれ」という比喩が可能になり、また「BABY IN A CARを掲げるミニバン」というイメージが可能になる。豊富な視覚情報とそれへの認識が、叙景の歌が多い鈴木ちはねの短歌世界を支えている。「見ること」により微細な状況を捉えた歌として、次のような人間観察に徹した一首が『海岸幼稚園』にはある。


   喫煙所の閉まりきらないドアを皆訝しみながら閉めていく


 さて本節ではしかし「見ること」の成果を報告したこのような歌ではなく、次の一首を二首目として取り上げる。この歌は、もの見る=認識する主体がさらに高次の段階から認識されている「メタ認識」の歌である。


   おとなに友だちはいない 信号機見るときすこし上を見ている


 私(たち)は信号機を見るときそれ自体ではなくその少し上の虚空を見ている、と作中の主体は言う。光り輝く信号機それ自体をなんとなく直視をせず、視界の端に色を捉えながら虚空を見つめている、自らの(あるいは他者の)認識それ自体の認識に主体の意識は潜り込んでいく。このような虚ろかつ内省的な主体の意識の在り方に、友だちを持たない都市生活者の空虚感をたとえば見出すことができる。
 よく遊びよく観察し人間について学んだ鈴木ちはねは「おとなにと/もだちはいない」という命題を発明し、句またがりによって「友だち」を裁断した。もちろん友だちのいる大人はありうるし、「おとなに友だちはいない」は普遍的な事実ではない。これは例えば「(身の回りの)おとなに友だちはいない」や「おとな(になった自分)に友だちはいない」という報告かもしれないし、あるいは「(ちゃんとした)おとなに友だちはいない(でいて欲しい)」という主体の願望かもしれない。『海岸幼稚園』の中には「友だち」を詠んだ歌が他にもいくつか収められていて、でもその友達の輪は狭かったり、あるいはその友だちは「いなくなってしまった」りする。
 幼稚園で人間を使って遊んでいたら、ある日、人間には友だちがいるということに鈴木ちはねは気がついた。では今度は友だちを使って遊ぼうとするけれど、でも、友だちは難しくてなかなかおもうようにはいかない。なぜなら、「人間」は自分とは無関係なものとして切り離して扱うことができるけれど、「友だち」とは人間関係のことであり、友だちを扱うと必ず自分も巻き込まれてしまうから。人間をこねて「セルフ全否定くん」を作るようにして、友だちをこねて何かをつくることはどうしてもできない。友だちには自分も含まれてしまう、自分で自分をこねることのできる粘土はないのだから。だから自分が巻き込まれないようにしながら友だちについて述べようとするとき可能になるのは、上記のような、「おとなに友だちはいない」という、突き放したような強がりのような言い方しかないのかもしれない。


   友達の狭き輪ある日暴かれて五月牡丹の花咲きほろぶ


 このように『海岸幼稚園』における鈴木ちはねの短歌は「人間」、あるいは「友だち」という他者と主体との距離をめぐる戦いの様相を呈している。書かれるのはコミュニケーションの問題であり社会の問題だ。ではその戦いにどのような展開がありうるのか。

3 きみはぼくと一緒にすること

 幼稚園には自由に遊べる「人間」という言葉=玩具と思うようにいかない「友だち」がいて、『海岸幼稚園』の鈴木ちはねの短歌には他に他者として、「ぼくたち」を構成する「きみ」を詠んだ歌がいくつかある。流血を強いるような他人に厳しい歌が多い鈴木の世界において、「きみ」を詠んだ歌は例外的に優しい。「きみ」を詠んだ歌で私が最も好きな歌を三首目とする。


   古樹高く聳えていたりきみはぼくとドーナツを食べに行くってうわさ


 かつてあなたとわたしは「大きな栗の木の下」で仲良く遊んだという、あるいは私たちはいま同じ世界樹のなかにいる。これらの例のように高く聳える大きな木を居場所として私たちは共有することができる。私たちに共有されたこの特別な場があって、目の前にいるきみはドーナツをぼくと一緒に食べに行くという。きみに与えられたのは、「友だち」とか「恋人」とか社会的に承認された関係性ではなく、掲出歌を相聞歌と捉えることは危ういと私はおもう。ぼくと一緒に何かをなすかもしれないきみの、この歌においては「ドーナツを食べに行く」という可能性は、社会的な承認を経たことのない内的で、だから社会にとっては危険で、だから楽しい、だからうれしい、ぼくときみのそれだけの在り方を作り出している。
 「友だち」や「恋人」は社会的に認知された関係性であり、社会それ自身の最小単位のひとつである。人間が寄り集まってできるその社会を、たぶん、鈴木ちはねは短歌において疑っている。興味深い観察対象としての人間があり、それが「友だち」のような小社会になってしまうのが許せないような気持ちでいるのではないか。「きみはぼくとドーナツを食べに行くってうわさ」、という関係が、他の社会的関係によって名付けられることを拒んでいるように私はおもう。だから鈴木ちはねは短歌において、ある種の優しさとともにその関係をそのままに記述するのではないか。


   マンホール開いてるところこのあいだ初めて見かけたよって君は


 「君は」、と言いさしてそれへの思いはなにも語らず、ただ「君」の描写に徹する鈴木ちはねの主体を私はどうしても好ましくおもう。人間との戦いを引き起こさず、しかし愛と述べることは憚られる、もっと未熟で純粋で平和なこの距離を私は好む。
 世界には認識の主体である自分と、さまざまな人間、人間の関係としての社会、人間の中の偶然の唯一として君がいる。世界における様々な関係の中で遊びのような探求、関係への断念あるいは拒絶、そしてただ「ぼくときみ」であることを行き来しながら、短歌において「人間」と「関係」の方途を探る。このような主題意識において、鈴木ちはねの短歌は極めて現代的な短歌なのではないか。
 そしてまた、稀風社という私たちの在り方は先程述べた「未熟で純粋で平和」な距離に、最も近いのではないかとおもう。なるべく社会であろうとせず、ただふたりの「場」としてのみあろうとする反社会的な私たちの在り方。といったところでまとめになるだろうか。とりあえずよくわからないけれど、ぼくはきみと一緒にしている。


 (文章:三上春海)