稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。問い合わせはkifusha☆gmail.com(☆→@)へ。

『誰にもわからない短歌入門』試し読み(1/4) 永井祐×三上春海

『誰にもわからない短歌入門』試し読み企画一日目

 本日より四日間,稀風社の東京文フリ21新刊『誰にもわからない短歌入門』の本文より一部を試し読み用に当ブログに掲載していきます。
 一日目の今日は鈴木ちはね推薦の一首に対する三上春海の評を掲載します。

(2) あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる

  永井祐「日本の中でたのしく暮らす」『日本の中でたのしく暮らす』
     (BookPark 2012.5.20)


 別に「あと五十年」を生きるために「赤で横断歩道をわたる」というわけではないとおもう。この歌に書かれている情報は、「ぼくはあと五十年は生きる」、「ぼくが赤信号の横断歩道をわたる」という独立の二つに分けられて、このふたつが「ぼくのため」という言葉で接続されているらしい。すこし変だ。たしかに信号無視は自分の利益のための、つまりは「ぼくのため」の行動ではある。でもこのように接続されると戸惑ってしまう。これが歌になるのがありなら「ぼくのため吉野家で朝ごはんを食べる」でも「ぼくのためかっこいい腕時計を買った」でも、なんでもありなのではないだろうか。
 でも、この「なんでもあり」な感じこそ、とても、「いまを生きている」人っぽいのかもしれない。いまの都市生活者は勝手気ままだ。食べるものも、着るものも、なにを選んでもいい。そういう時代精神をそのまま持ってきた修辞、いまの生活をそのままに写し出した修辞、それがこの「なんでもあり」な修辞なのかもしれない。


 さて、「生活をそのままに写し出した修辞」。(1)では斎藤茂吉の「あかあかと」の歌を引用したけれど*1、「赤の横断歩道」という「もの」を経て「あと五十年は生きてく」という「こと」に至る写生の歌、掲出の永井の歌もわたしはそう捉えてみたい。(1)の笹井の歌に濃厚な死の匂いが感じられたことに比べて、こちらには生の匂いを強く感じる。笹井の歌は時代の「ねじれ」の表出であったのに対して、こちらは時代の空気を順接で受け止めた、より「生」に対して忠実な歌におもわれる。
 時代をまっすぐ受け止めてその中の「生」を表現する、という点において、永井のこの歌と近代短歌は共通する。でも、受け止めている「時代」そのものは異なっている。ぼくはあと五十年も生きられるのだろうか。このひとはそう信じているみたいだけれど、わざわざそれを言葉にするということは、逆の可能性もまた当然意識している。「赤信号で横断歩道をわたる」が省略され、「赤で横断歩道をわたる」と言い換えられる。すべてが真っ赤な警告色に染まっているかのようだ。近代のあかあかとした一本の道に対して現在のそれはすこし危険で、どこにも続かないような気さえする。「赤の横断歩道を駆ける」わけではないらしいし、そんなに忙しくもなさそうだ。でもぼくは歩く。苦しい、死にたい、といいながら働くひとのように、ぼくはいつものように信号を無視して、どことなく危険な道を歩き続ける。不安で危険な生だけがあり、生きることはそのまま死につながっている。ただし、どのような死になるかはわからない。わたしたちがいま生きているのはそういう時代かもしれない。
  (評者:三上春海)


 明日は以上の評に対する鈴木ちはねの返信をアップします。どうぞよろしくお願いします。

*1:編集註:本では先に(1)として笹井宏之の〈どろみずの泥と水とを選りわけるすきま まばゆい いのち 治癒 ゆめ〉(『てんとろり』二〇一一)という歌を扱っている。(1)の中で三上は斎藤茂吉の〈あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり〉(『あらたま』一九二一)を引用しながら,笹井宏之の短歌における「写生」について論じている。