稀風社ブログ

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稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。問い合わせはkifusha☆gmail.com(☆→@)へ。

『誰にもわからない短歌入門』試し読み(3/4) 花山周子×鈴木ちはね

『誰にもわからない短歌入門』試し読み企画三日目

 今回は三上春海が選んだ一首に対する鈴木ちはねの評を掲載します。

(21)
くしゃみをしたいときは光のほうを見るのだとそうするとでると母言いたまう

   花山周子「鉛筆の香」『風とマルス』(青磁社 2014.11.3)


 この歌を一読して、そのときそこに「母」が実際にいるのかというと、どうもいないのではないかという印象を僕は持つ。あくまで感じの話であって明確な根拠があってそう言うのではないが、この感じは回想の文体であり、内省の語りなのだ。それは母の言を「と」で受ける平明な言い回しがそうさせるのかもしれないし、あるいは結句「母言いたまう」のなんとも軽妙で掴みどころのない読後感がそうさせるのかもしれない。


 回想の文体、というのを僕は(6)でも少し考えていたのだけれど、それはたぶんアクチュアリティを剥奪された文体のことではなかったかと思う*1。文法的な時制の操作ではなく、あくまで文体が時間指定を躊躇っている状態、とでも言えばいいのだろうか。たとえば掲出歌の場合、結句を仮に「母言いたまいき」とかにしたら、それは回想の叙述になる。叙述はあくまで事後的な説明であって、そのとき回想しているのではない。一方で「母言いたまう」というのは現在形と呼びうるのかもしれないが、むしろそこには時間に対するこだわりの無さ、等速等間隔に流れる近代的時間感覚に区切られない未分化な時間感覚があるように思う。あるいはこの感覚は日本語の終止形の不思議な効能であるのかもしれない。回想の文体に於いて語りの内容が、今、そこで起きたことについてであっても、あるいはかつて、どこかで起きたことについてであっても、それらはすべて等価であって、言葉がまさに口を衝き生成されるそのときに、はじめて現前しているのだ。そういう意味で、僕が(6)で回想の文体をアクチュアリィ(現前性)の喪失として捉えたのは半分は正しくもう半分は誤りで、正確には「全てはそのときに現前している」ということになるだろうと思う。だから掲出歌に話を戻すと、「くしゃみをしたい」私が現前しているそのとき、「くしゃみをしたいときは光のほうを見るのだ」「そうするとでる」と言う母もまたそのときに現前している。おそらく回想というのは記憶をそのときに引き戻す語りであって、過去の出来事を説明することではないのだ。


 右に僕が述べたことについて、一体お前は何を言っているのだと思う読者が大半だろうし、あるいは掲出歌について「時間に対するこだわりがない」と言いながらもお前がいちばんただひとつの時制解釈こだわっているではないか、と思っている読者もいるかもしれない。だがこうも考えられないだろうか。言葉による語り、ないしは記述に於いて、ある事象そのとき現前しているということは、ある事物がそのとき存在して、ある事象そのとき起きているということともはや同義ではないか。人間の思考はつねに言葉として生成されるそのとき、その瞬間の産物であると言えるのではないか。

  (評者:鈴木ちはね)


 明日は上記の評に対する三上春海の返信を掲載します。

*1:引用註:鈴木ちはねは『誰にもわからない短歌入門』の(6)において遠野サンフェイスの〈好きな娘の見てる今こそ屋上よりまんこと叫べ男一代〉について次のように書く。『また、この歌自体、記憶の想起(回想)の文体であると言える。遠野は慎重に、ことばがアクチュアリティを持つのを躊躇う。「まんこ」に鉤括弧が付かないことも、その台詞からアクチュアリティを剥奪し、平明な語りに組み込むためだ。』