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稀風社ブログ

稀風社は鈴木ちはね(id:suzuchiu)と三上春海(id:kamiharu)の同人誌発行所です。

カミハルさんの短歌について 第1回:とりのこされる抒情

 どうも、id:suzuchiuです。id:kamiharuさんに「ブログにアップする用の記事を何か書け」と言われたので、これから何回かに分けて、カミハルさんの短歌について書きます。


 「もうばか」といって緑の皮膚をした疫病患者はとけてしまった
 

 すごくいい歌だと思う。
 短歌の31音と言う制約は非常に狭い空間だから、その狭い空間を最大限に生かすためには、ひとつ抒情の「核」となるようなことばを配置して、それをどう生かすかという考え方で31音を構成していくということが、方法論としては比較的ベターである程度一般的なんじゃないかなと思う。この歌の場合は、「緑の皮膚」とか、「疫病患者」とか、あまりふだん見かけない刺激的なモチーフが出てくるけれども、やっぱり最終的に読者の胸に残る「核」の部分はおそらく、「もうばか」なのではないかと思う。
 上述の刺激的なモチーフたちは、僕らが「もうばか」に呆気にとられて立ち尽くしているあいだに通り過ぎて、「とけて」いってしまう。「とけてしまった」あとに取り残されるのは、あてどなく浮遊する、むき出しの概念としての「もうばか」なのだ。これは鮮烈だ。読者は禍々しく、それゆえにエロティックでもある「緑の皮膚をした疫病患者」というイメージを通り抜けたあとで、「もうばか」とともにぽっかり取り残されてしまうのだ。なんというか、ダイナミックで、非常にあざやかだ。
 よりどころを失った「もうばか」は、あてどなく読者の胸のうちこだましつづけるしかない。

 上に引用した歌の中では「とけてしまった」が、読者を置いてけぼりにするための、言わば「穴」としてうまく機能している。カミハルさん自身がどれだけ自覚的なのかわからないけど、僕が思うにカミハルさんは、こういう「穴」をうまく設置して読者を置いてけぼりにするのが巧いと思う。
 たとえば以下のような歌がある。


 流れ去るものにおおきく手をふって言うべきことを言うべきだった


 この歌も、最後の「べきだった」ということばで読者を見事に裏切っている。英語だったらこの「べきだった」はたぶん「I should have ~」と文章のいちばん頭に来るところを、日本語ではいちばん最後に言われることが多いから、こういう時制やモダリティ*1wikipedia:モダリティ)レベルでの裏切りが可能になる。面白いと思う。
 「流れ去るもの」が具体的に何を意味しているのかは読み取れないけれど、「流れ去るものに大きく手を振」るというのは、とにかく大げさな動作であることは間違いないだろう。さらに対象はどんどん遠ざかってゆくものだから、つられて動作もどんどん大きくなってゆくに違いない。おまけに、「言うべきことを言う」とまでくれば、それこそその「言うべきこと」は喉元まで出掛っていると言っていい。しかし、「べきだった」のだ。それらの動作や発声は実際には行われていなかったことが最後に判明する。一緒になって心の中で「大きく手を振っ」たりした僕の労力を返してくれとさえ思う。この消化不良感はすさまじい。
 そして取り残されるのは悔恨の感情だ。ここでは読者は歌の中の<私>とともに取り残されて、同じ後悔を追体験させられるのだ。ここではむしろ「流れ去るもの」や「言うべきこと」が抽象的であればあるほど、抒情を普遍的なレベルまで引き上げるのに効果的だろう。
 後悔という抒情自体はおそらく誰でも体験しているであろうきわめて普遍的なもので、悪く言えばありきたりなものだ。けれども、そこで安易に「固有の体験」性を表に出すのではなく*2、あくまで普遍的な抒情として、この後悔の念をここまで大胆に読まされると、なんというか正直、すごいなあと唸らされざるを得ない。

 どんどん細かい話になってしまって大筋から逸れてしまった感はあったけれど、要するに、カミハルさんはただのシュールで繊細なだけの詠み手ではなくて、じつはすごいことばのセンスと地力を持っている人なのだということを言いたかった。僕なんかが言っていいことなのかはわからないけど。

(第2回へ続く)

*1:話し手の話す内容に対する判断や態度、感じ方などのこと。

*2:ツイッターでみかける若い歌詠みの人とか、若い世代の歌人の歌なんかにはそういうのが感覚としてすごく多い。